正統とは何か チェスタトン
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2022/01/08
学生時代、西部邁先生の演習で、先生が「チェスタトンはためになると思うんですよね」と言って、指定図書として『正統とは何か』の箱入り版を皆買った。ただし当時は西部先生はまだ「保守」とは名乗ってなくて「健全な懐疑の精神」とか「僕は経済学なんかもうどうでもいい」が口癖だった。 『正統とは何か?』でチェスタトンは、徹底して因果律的な知性の過信を批判する。時系列的に過去の原因が後の結果に作用しているということを、あまりに現代人は過信しており、そのため対象というものを失っているのだと。鳥が飛んでいることと、鳥が卵を産むことは全く別のこととしか自分には思われないとチェスタトンはいう。これは、起成因(機械論)的な説明で現実世界はほとんど説明できないことが多いのに、そこを錯覚してほとんどそれで理解できるかのように思っているということだ。それによって、現代人は「対象」を喪い、懐疑主義者は懐疑のための懐疑をし、意志の崇拝者は意志の崇拝そのものを目的化し、そして狂ってゆく。 このとき、なぜ対象を喪失するかというと、機械論的な説明は過去を引っ張ってきて現在に当てはめようとするものでしかないからだ。正確には今と、対象がそこでは消えているのだ。チェスタトンは、こうした精神において喪われているのは想像力だという。それも、おとぎ話的な想像力である。おとぎ話でリンゴが金色なのは、始めてリンゴが赤いのを見て驚いたことを思い出させるためなのだ、ともチェスタトンは言う。その驚きとともに対象はある。それを喪うと、近代の狂気に陥る。つまり、想像力はチェスタトンにとって再魔術化のための鍵なのだ。 想像力の産物もまた、それこそまさに「対象」である。そしてそれを遇する倫理というものがおとぎ話にはあって、王女様にタマネギを食べさせては行けませんとか、中をのぞいてはいけませんとか、一見して不合理な禁制である。因果律ではない、驚きの連続として世界を見ている子供はこれを守るが、しかしなにかもっともらしい合理的な理由からそれを破ると、そこで成立していた想像力の産物=対象はたちまち消えてしまう。こういう、フィクションの産物をオブジェクトとしてどう考えるか、というのは現代の哲学の重要問題である。その点からもここでのチェスタトンは極めて示唆的だ。
あと、対象を驚きをもって見守ることと、因果律で説明できることは実はブツ切れなんだというのを重視することは、驚き以外の情念の問題系とも繋がるはずだ。ここで、実はアランが情念について考えていることが、ぴたっとはまるのではないか。 2022/01/08
一 本書以外のあらゆる物のための弁明
二 気ちがい病院からの出発
かりに真実が二つ存在し、お互いに矛盾するように思えた場合でも、矛盾もひっくるめて二つの真実をそのまま受け入れてきたのである。(…)つまり、人間は、理解しえないものの力を借りることで、はじめてあらゆる物を理解することができるのだ。(p39-40) 仏教について言及をしているが、すこし不可解だggkkiwat.icon。 仏教は求心的だが、キリスト教は遠心的である。それは輪を突き破って四方にあれ出る。円環は、その本来の性格として、完壁であり無限であるが、永遠にその大きさが決まっている。大きくなることも小さくなることもできぬ。ところが十字架は、その中心には衝突と矛盾を持ちながら、四つの腕をどこまでも、しかも全体の形を変えぬままに遠く、遠く伸ばしてゆくことができるのだ。中心に逆説を持てばこそ、それは形を変えずに成長してゆくことができるのである。円環は永劫に自己に回帰し、閉じられている。十字架は四つの方位に腕を広げ、腕を伸ばす。それは自由の旅人の道標なのだ。(p40) 三 思想の自殺
思想を破壊する思想がある。もし破壊されねばならぬ思想があるとすれば、まずこの思想こそ破壊されねばならぬ思想だ。(p50) 四 おとぎの国の倫理学
実はわれわれは、みなこの男と同んなじことなのだ。みんな自分が誰だか忘れてしまっている。宇宙は理解できても、自己を知ることはできない。(p87) おとぎの国の原理
魔法の力はいつでもたった一つ、してはならない条件にかかっている。たった一つの小さなことが禁じられていて、その条件にさえ被らなければ、目も眩むような壮大なことが与えられるのだ。(p89)
世界が神秘的に思われたので、その理由がわからない・ルールに従えない、などと文句をつけることなどできなかった。
私の視界には限界がたくさんあった。限界があるために、視界の中に見えるものさえ理解できなかった。なぜ視界に限界があるのか、そのわけがわからんと不満を鳴らしたりすることは考えつきもしなかった。つまり要するに私には、絵の額縁も絵の中身と同じく不可思議だったのである。「してはならない」ことは「してもよろしい」ことと同様に異隊であった。(…)私は、単にある規則がわけがわからぬという、ただそれだけの理由でその規則に抵抗する気にはなれなかった。(…)そもそも私が天と地を与えられているということ自体に比べれば、こんな奇習など奇妙でも何でもなかったからである。(p92) すでに私は、漠然とではあるが、世にいわゆる事実と呼ぶものが実は奇蹟なのだと感じてはいた。だがその意味は、事実があまりにも驚異に満ちているというにすぎなかった。しかし今や私は、もっと厳密な意味で事実は奇蹟だと考えている。つまり、事実の背後には意志が存在する。その意味において奇蹟と考え始めたのだ。事実とは、何らかの意志が繰り返して働いて作り出しているものである。(…)私はそれまでいつも、この世の中には何らかの目的があると感じていた。だが今や私は思い到ったのである。目的があるのなら、その目的を目的とする人格があるはずだ。人生は物語だと私はいつも考えていた。だが、もし物語があるのなら、その語り手がいなくてはならぬはずである。(p100-101) ここにキリスト教、というか一神教的な価値観がある。なぜ「目的」があると思っているのでしょう。。。ggkkiwat.icon と思っていたが、神話的な思考ってほとんどこういうもので、何かしらの意味をつけようとすることは、人間そのものの営為であるのかもしれない。。 いや、意味は主観的なものなので、それは”自分”から抜け出ていない点でそれは”外部”に依ってなくて、それは神秘主義なのか?っていう。ggkkiwat.icon 五 世界の旗
生命の存在そのものに関心を持とうとせぬ態度にほかならぬ。(p125)
自殺者は、地上から何一つ盗もうとしないことによって、地上のあらゆるものを侮辱するのだ。(p125)
六 キリスト教の逆説
合理主義で覆い隠さぬほどには非合理
自分が狂人だと、世界のものが狂気に満ちているように見える
七 永遠の革命
今まで主張してきたところを要約すれば、結局三つの命題に帰着する。第一、この世の生活を信じなければ、この世の生活を改善することさえ不可能であること。第二、あるがままの世界に何らかの不満がなければ、満足すること自体さえありえぬということ。第三、この不可欠なる満足と不可欠なる不満を持つためには、単なるストア派の中庸だけでは足りぬことーー以上である。なぜストア派の中庸では足りないか。単なる諦念には、飛び立つような巨大な歓びもなければ、断固として苦痛をしりぞける力もないからだ。(p184) 八 正統のロマンス
正統は自由と革新と進歩の論理的なる守護者である
九 権威と冒険
チェスタトンが呼棄すべき異端とみなしたのは近代を彩るものとしての進歩主義の思想そのものであったからである。ヒューマニズムの名において伝統にたいして破壊を仕掛ける革新主義、それは近代における正当の立場であっても、断じて正統なものではありえない。というのも正統とは、歴史の流れの連続性にかかわるもの、とりわけその連続性を確保するためのものとしての伝統の保守にかかわるものだからである。 相対主義は差異化をもたらす一瞬にしか輝かない。虚無主義になるか、自殺するか、狂人になる 理性には前提が必要なのだが、いかなる前提をおくべきかは理性によっては定められないのである。それを定めるのは主として感情のはたらきである。しかしどんな感情であってもよいというのではない。長く持続した感情、いいかえれば伝統と化した感情だけが理性に確かな前提を与えてくれる。なぜならば伝統は、現在の世代と同じく知性的にも道徳的にも不完全であった過去の世代が、それでもなおかつ長い時間の流れで少しずつ堆積させてきたいわば歴史の知恵とでもよぶべきものを、含んでいるからである。(p307) チェスタトンは、フリードリヒ・ニーチェのことを評して、「ニーチェには、生まれながらの喝弄の才能があったらしい。供笑することはできなくても、冷笑することはできたのだ。……孤立した倣慢な思考は白痴に終わる。柔かい心を持とうとせぬ者は、ついには柔かい脳を持つことに到りつくのである」といっている。ここでいわれている「柔かい心」とは、伝統に内包されている人類の知恵を洞察せんとする精神の構えのことだ。その構えをかなぐり捨てた現代の知識人には、ニーチェにおいてもそうであったように、「自殺狂の気味」がある。それも当たり前の話で、理性の前提を破壊するということは「思想を破壊する思想」を生み出すことにほかならず、そういう自己破壊のはてに待ち構えているのは自殺のみである。(p307) チェスタトン.icon 宗教が滅べば、理性もまた減ぶ。どちらも共に、同じ根源の権威に属するものであるからだ。(…)そして、神によって与えられた権威を破壊することによって、われわれは人間の権威という観念まであらかた破壊してしまったのだ。(思想の自殺)。西部邁.icon この文句の意味は、自己を超越する次元にまで視線を及ぼす精神の力量を持つことこそが自己を権威あらしめる唯一の方途だ、ということである。逆にいうと、自己(人間)を無条件に権威の源泉とした近代のヒューマニズムは、超越(神仏)への思いを非理性的として噂けってきたため、とうとう自己を無価値なものとして足蹴にする破目になったということだ。(p308) 平衡感覚の形としての伝統
副読した
西部邁.iconの解説が極めて明快で、本文を読み始める前に一読すべし
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